氷のある情景を描いた詩
真鶴点景
藤井 良治
油…
汗…
音 …
氷屋のビーズのれんがさそう
港の水平線は船をひっくりかえす
田舎芝居の大のぼり
ぴ ぴぴ どん どど
倦怠をけぶらす羽ばたきの
鷗!
ほこり道をほこりのサンダルであるく
幼稚園の女先生
製氷工場のトラックは子供らの歌を
蒙々とかきけしていく
ドックは閑として
日光浴
※鷗-かもめ
東京オリンピックのあった1964年に発表された、藤井良治氏による詩集「三檣船より引用した詩です。
氷屋が詠われた数少ないこの詩からは、小さな夏の港町の情緒的な情景が伝わってきます。
蜃気楼に揺らぐ船のイメージから暑さを、そして氷屋のビーズのれんからはその中での一服の清涼感を、言葉から温度を感じることができます。
真鶴の原生林に見られる巨木たち。真
この詩が詠われた場所は、神奈川県の南西部、箱根火山の南東に位置する真鶴町で、「日本のリヴィエラ(地中海のリゾート地)」とも呼ばれる美しい景観を持ち、町から突き出した小さな半島はほぼ全域が自然公園となっていて、樹齢350年を超える巨木の原生林が生い茂っています。
東京オリンピック以前にはまだまだ氷冷式の冷蔵庫も多く見られ、氷はまさに生活必需品でした。現在、真鶴に大きな製氷工場は見られません。
今でこそ景観法で保護された美しいリゾート地というイメージの真鶴ですが、かつては水源が不足していて農業などが少なく、産業といえば火山活動の影響で生まれた良質な安山岩「小松石」の採石、加工、輸出でした。
真鶴港は小さいながらも積み出し埠頭を持ち、ここから全国へ小松石を運び出していたと思われます。そんな真鶴の町において、冷たい氷が人々の生活において果たす役割は非常に大きなものであったと想像できます。
しかし、詩集「三檣船」が発表された年にあった東京オリンピック、これが真鶴のその後に大きく影響していきます。
真鶴町の水道事業は昭和初頭に始まりましたが、硬い安産岩の上に築かれた土地であることから、水源の確保は至難の業でした。そのため、西隣の湯河原町から買った水と、東隣の小田原市との境に設けた水量の僅かな水源地を利用してきました。
ところが、東京オリンピックを目標に建設していた新幹線の路線が、東の水源地から真鶴町の西端までを貫く六郷山トンネルとなりました。この工事で起きた落盤事故により、水源地を確保した翌年には水源地の水が枯れてしまいました。しかし、落盤現場からの湧水が、水源地に近い保守用の横穴トンネルを経て地上に流れ出ました。
この大量の地下水を確保するため新たな装いに水源地を改良し、これにより真鶴の水源問題は解消していきました。今では北部海岸沿いの丘陵にミカンの樹園地が多く広がっています。
製氷業において原料水は命とも言えるものです。この詩の中に出てきた氷屋の氷は、一体どのような流れを経てきた原料水を使っていたのでしょうか。真鶴の水事情も考えると想像が膨らみます。
今でもかかせない水産氷
真鶴は美味しい魚が獲れる事で有名な駿河湾、富山湾と共に日本三大急深の湾と称されています。
真鶴港から10kmほど沖に出ると、一気に最低深度1000mに達するような深海域まで続く海が広がっています。そのため岸近くまで様々な魚がやってくるため、港のすぐ近くで新鮮な魚を獲ることができ、小さな港町でありながら約200種もの魚が水揚げされ、築地の市場でも「真鶴からくる魚は間違えない」という評判だそうです。
漁業において、水産物の鮮度保持のために使われる氷を「水産氷」と呼び、それ以外の用途として使われる氷の「陸上氷」とは都道府県知事の許可によって、あらゆる面で区別されています。
真鶴港のある地魚レストランでは、魚の氷処理(〆た魚を氷漬けにして鮮度を保持する)を通常の3倍以上の氷を使い鮮度を保って、非常に美味しい魚料理を出していました。
水産物が大きな魅力の一つである真鶴の町では、現在でも氷は欠かせないことでしょう。
かつて真鶴には水族館もあった
海と共にある真鶴の地には、かつては水族館もありましたが1980年代に閉館してしまいました。
今でも自然公園の原生林に埋もれるようにして水族館の跡が存在していますが、危ないので観光で訪れても探索しにいくのは止めましょう。かつて水族館があったことを反映するように、前述の「三檣船」の詩集にも「水族館」という詩が存在します。
この詩には、興味深いことに製氷業においても頻繁に浄水装置として用いられ、 小野田商店でもかつては原料水の生産に用いられていた(現在はより純度の高い原料水を造れるRO装置に変更)、「イオン交換樹脂」の記述が登場します。
調べた限りではわからなかったのですが、この詩の作者もかつて製氷業になんらかの形で関わっていたのではないか?とすら想像してしまいます。
水族館